ポスト団塊世代のお気楽な日々

初老に近いおばさんが自由気ままに書き綴る自分勝手なひとり言

★姑の日本語

先日、地域に住む外国人も参加して、多文化共生研修会が行われた。
日本語教室のボランティアスタッフも参加した。
グループに分かれ、外国人を囲んで、彼らの忌憚のない意見を聞く機会があった。

いろんな意見が出たが、その時、反省しないといけないなぁと思うことがあった。
それは、彼らが言うように、わたしも外国人の知り合いが間違った日本語を使っても、いい加減に聞き流して、訂正しないことである。
本気で彼らのことを考えれば、間違いを指摘してあげるべきなのだが、まあ、いいか、で済ませることが多い。(もちろん、日本語教室では、生徒さんの間違いはきちんと訂正しています)

姑は、婿殿と違って、日本に来ると積極的に日本語を使おうとされる。
それは大変いいことなのだが、間違った日本語を使われても、なかなか指摘しにくい。
年長者に恥をかかせてはいけないと、思いやり溢れるわたしは思ってしまうのだ。

食事が終わって、満腹になる。
すると、姑は、「おはら いっぱい」と言われる。
「お」を付ければ、丁寧な感じになることはご存知なのだ。
でも、「おはら」という表現は日本語にはない。
当然、「おなか」でなければいけない。
だけど、「はら」に「お」を付けると、何故、「おはら」でなく「おなか」に変わるのか、考えてみれば不思議な話だ。
「おはら」でもいいではないか、という気がしてくる。
 
譲れない言葉もある。
「飯」は中国語では「ご飯」とか「食事」を意味し、「ファン」と発音する。
姑は、これを日本語では「めし」と読むことを知り、使いたかったのだろうか。
しきりに「めし」を連発する。
「めし おいしい」「にほん めし きれい」等々。
これは、女性が使うと、かなり耳障りである。
譲れないはずなのに、わたしは見て見ぬふり(というか聞こえないふり)をしてしまった。

勇気のない自分、いい子ぶりっ子の自分、事なかれ主義の自分につくづく愛想を尽かした。
(相も変わらず大袈裟よのぉ)